からくり儀右衛門について - 久留米からくり振興会公式ホームページ-からくり儀右衛門-弓曳童子、茶汲娘、童子杯台、文字描き人形

からくり儀右衛門について

 儀右衛門、後の田中久重は1799年(寛政11年)10月、久留米の今でいえば通外町に生まれました。今でも西鉄高架の西側に儀右衛門が生まれた所という記念碑が建っています。父親はべっ甲細工の職人でした。幼い頃から今でいう「工作」に才能を発揮し、寺子屋で筆記用具をいたずらされたことに対して、「開かずの筆箱」という中のものを勝手に取り出されない筆箱を考え出したと言われています。

 五穀神社のすぐそばで生まれ育った儀右衛門にとって、この神社の祭礼は大事な、そして楽しみな行事でした。当時、祭礼で流行していた「動く人形」の出し物の数々に心奪われた少年は、自らそれらの動く人形に工夫を凝らし新しいものを考え出して「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになりました。
 「からくり」とは機械仕掛けの動く人形、おもちゃなどのことを指します。儀右衛門少年が「からくり」に没頭し始めた頃は明治維新までまだ50年以上、鎖国していた日本の開国に大きな影響を与えた黒船の来航もまだまだ先の時代のことですので、その原動力は電池とモーターなどと言うものではなく、水などが高いところから流れる時の力やゼンマイなどでした。そして歯車も人形もほとんどが木を削って作られていた時代です。

 「からくり儀右衛門」は、家業を弟に譲り自分はからくり興行師として日本中で自分が考案したからくり人形をみせて廻っていましたが、30代はじめには大阪に定住しました。からくり人形ばかりでなく、折り畳み式のロウソクたて(懐中燭台)やロウソクの何倍も明るい空気圧を利用した菜種油のランプ(無尽灯)などをはじめ、用途に応じたオーダーメイドの実用品や工芸品を作りつつも、数学や天文学などを勉強してより高度な技術を習得します。

 その後、京都に移り住んだ儀右衛門は、「弓曳童子」や「文字書き人形」などを作り、当時の日本で最高の技術者と誰からも認められていました。
 その技術に目をつけた佐賀鍋島藩は、彼を佐賀の近代技術研究所ともいうべき「精錬方」に招いて、長崎から入ってくる当時の世界最先端の技術を学ばせ佐賀のものとする仕事をします。その後、もともと久留米の出身ですので、毎月半分ずつを佐賀藩と久留米藩で勤めるという当時としては画期的な立場で技術指導者として活躍します。
 明治になって75歳の儀右衛門は東京へ出て、銀座に「田中製作所」をおこします。この田中製作所が後に「東芝」へ発展し、儀右衛門の弟子たちがおこした店も日本の近代化を進める企業となり今日の日本の多くの企業にその名を残しています。

 つまり、五穀神社のお祭りのからくり人形から、現在の世界の最先端の技術を競う日本が生まれたとも言えるでしょう。

(久留米からくり振興会 副理事長 半田利通「五穀神社とからくり儀右衛門」より)

関連サイトへのリンク

・久留米市文化財収蔵館「からくり儀右衛門(田中久重)の生涯」